博士はますます興奮しながらいった。
「なぜ、歴史がいくつもあってはいけないのだ? それが可能なら、平行する無数の歴史があってもかまわないじゃないか? 無数の可能性を追求する。無数の歴史的実験があっていいのに、なぜ、やりなおしのきかないこの歴史だけに、人類が甘んじなきゃいけないのだ? 最も理想的な歴史的宇宙をえらぶ権利がなぜないのだ? 権利は常に可能性によって押しすすめられる。それが可能になったならば、その時は我々もまた、理想とする歴史をえらぶ権利がある」
狂人はパッと両手をあげた。
「僕はついに、人類を歴史から解放した!」
「それはまちがっている」局長は静かにいった。「あなたのその妄想自体が、すでに歴史的制約の産物です」
「妄想だと?」狂人は嗤った。「君たちにはわからんさ」
「我々の時代は、すでにそういった考え方をのりこえているのですよ」
局長はテーブルをとんとんとたたきながらつぶやいた。
「そういった考え方を必要とせず、この単一の、やりなおしのきかない歴史を生きてこそ、我々は人間なのです。人間は、自己を保つために、いくつもの可能性を破棄して来た。人間が人間を食べる事…こんな合理的な事もね。それから永生手術も破棄しました。機械に人間の脳を移植する事も…」
「君たち保守主義者の方が、よっぽどすさまじい歴史犯罪者じゃないか!」
狂人は怒りにみちて叫んだ。
「人間の無限の可能性をつみとったんだ!」
「それというもの、『人間』という種の維持のためでした」
局長は答えた。
「歴史には拡大ばかりでなく、縮小も必要です。種とその文明が、具体的な形をとるためには、それが全宇宙の可能性の中に、拡散し稀薄化してしまうのを防ぎ、つなぎとめなければなりません。無限に、演繹的に可能性を追求して行けば、ついには人間は、自分自身がわからなくなってしまうのです」
局長はふと、タイムスコープの方をふりかえった。
「はっきりいって、われわれの時代の道徳は、保守主義です。ですからわれわれの時代は、数十世紀前のモラルにとても似ている。…道徳の復古現象は、必要によって起こるのです」
「さあ、行きましょう」
ヴォワザン警部は博士の腕をとった。
「すぐに時間裁判所へ行くのか?」
「いいえ、病院です」警部は冷静にいった。
「精神鑑定をうけて—きっと実刑はまぬがれるでしょう」
「あくまできちがいあつかいするんだな!」
「申しあげにくいが、過度の時間旅行による歴史意識の後退現象が起こっています」
「歴史学者が、対象年代に夢中になるのは当たり前だぜ」
「いいえ、博士」警部はおだやかに笑った。
「あなたが、まるで二十世紀の人間のような感情をもったというだけじゃありません。それなら単なる想像力過剰現象でしょう。—しかし、あなたは、自分が正常だと思っていられるでしょう」
「あたり前だ」
「それがおかしいのですよ。あなたはさっき、二十世紀の歴史的な傷が、千年後の今日まであとをひいていると言っておられましたね。あなたは三十世紀の意識でしゃべっておられる。けれど現在は、あの第二次大戦から五千年たっているんですよ…」
小松左京「地には平和を」より
